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吉田拓郎

説明不要 

2022年7月23日 (土)

LOVE2 (2)

昔からの付き合いのある、お客であるN君(以前も登場してたよね)が言う。

「このあたりがね、すごいね」

のどと言うか首周りを示しながら、拓郎さんも年を召されたと表現する。

テレビの影響は大きい。ましてや、アナログの時代ならいざ知らずデジタルである。

細かい皴まで映り込む。いつぞや、有楽町でマイクを差し出されびっくりしたら

顔の横にテレビカメラがあった。街頭インタビューとやらだ。思わず逃げた。

あの時普通に答えて、それがオンエアされてたら、そしてそれを自分で見たら

ぞっとしていたかもしれない。目じりの皴で。

とにかく、僕の吉田拓郎が、なんだかみすぼらしく言われるのが悔しかった。

 

僕の吉田拓郎観は、40代までの拓郎さんで完結している。

どう考えても、LOVE2メンバーに入れ込む吉田拓郎を理解するには

僕には無理だ。

ハワイでわいわい楽しいなぁと、見せびらかす吉田拓郎を理解するのは

僕には不可能だ。

それをすんなり受け入れる君たちがうらやましい。

さんまだ、キムタクだ、奈緒だ、そして涙ぐむ吉田拓郎。

いや、違う。そうじゃない。そこじゃない。

思うに、音楽界でリスペクトされてはいるけれど、一緒にやりたくないと

思われてるのかと勘ぐる。結果、あのメンバーしか・・・・

声が出なくてもいいし、しわくちゃでもいいし、よろっとしてもいい。

76歳まで頑張って来たぜ!そういう最後の映像であって欲しかった。

とにかく、しつこいけどさ、あの落陽はないよ。

ホタルのヒカリじゃないんだから、みんなで合唱はない。

そして、あの吉田拓郎作詞の歌。なんか、詰まんないなと思う。

なぜ?それは、次回。

ん?そろそろ褒める方に向かうんだろうって?

まぁ、あながち間違いじゃないかもね。

 

2022年7月22日 (金)

LOVE2 (1)

朝、出がけに鉢植えの庭木たちに水を上げようと、庭の蛇口に取り付けてある

ホースリールを見ると、まさにこれから脱皮して、飛び立つ前の蝉がいた。

長い年月を土の中で過ごし、ようやく地上に出たものの、適当な木が見つからなくて

こんなビニールホースにしがみついてる。飛び立つ邪魔をするのもなんだかねと、

朝の水やりは中止。仕事に出かける。

 

仕事場で、何を言われたか。僕の想像通りだ。LOVE2を見た輩が、大して気を遣わずに

「吉田拓郎ってじいさんだな。」

いや、僕もそう思うよ。それは、数年前の古館一郎との対談から、もうそう思ってたよ。

なんていうか、良い年の取り方をしてる爺さんではない。

無理してる爺さんだ。あぁいう爺さんにはならないぞと、決めた。

 

さて、LOVE2。あれって、録画してみてたんだけど、面白かった?

本当に君たちはそう思うか?あれが、感動したり、良かったと言えるか?

人それぞれ感想はある。だから、それも認めるけれど、少なくとも僕一人は

「やらなくても良かったんじゃない?」と思ってるよ。

あまりに中身が薄い。何が残った。?何も残ってないんだよ。キムタクと会って何がしたかった?

あいみょんに媚びを売って何をしたい?

シノハラってそれほどのものか?いやぁ、あれじゃない。

あの番組だったら、オンエアの価値はない。あの内容だったらテレビの中じゃなくて

どこかのパーティー会場で、自分たちだけで集まってやってもいいんじゃない?

少なくとも、「落陽」はよせ。すくなくともなぜシノハラに歌わせた?

これが拓郎の最後の映像になるのかと、思わなかったかい。

おもったらあの画はない。それともあれかなぁ?

もう一人で歌えないほどなのかなぁ、拓郎さん。

最後のテレビ。もともとそれほどテレビなんか出てないじゃん。と言う突込みは

この際置いておくけど、いや、やっぱりあれはない。

 

ねぇ、本当に、君はあの番組を素直に喜んでるのか?

各記事のコメントを見ても、僕のようなのは見当たらない。

規制でもかかってるみたいに。

 

すべての拓郎ファンだった人が、良かったと、拓郎さんお疲れさまと

拓郎さん、素晴らしいと、そう思ったとしても、僕は違うんじゃない?と

思う事にするよ。僕の吉田拓郎の定義レベルはもっと違うところにあるからね。

 

それはまた明日にするよ。

これで君はまた、ここに来ざるをえない。

 

2022年7月18日 (月)

私たちの望むものは。

一応、録画予約はした。うん、LOVE2のね。

そうしたら、予約した人の数が4万人を超えていた。

つまりだ、つま恋なんかと同じ人数が、この番組を見るわけだ。

つま恋の遠くに見えるステージで、LOVE2がやってるようなもんだ。

それはそれで、すげぇなと思う。

それにしても、ちょっと番組の裏側をリークしすぎだろう。

たとえば、あいみょん。たとえば、キムタク。

そしてトークの内容まで、始まる前から発表したりしてる。

ライブの前に、セットリストどころか、MCの内容まで暴露するようなもんだ。

あほか!担当ディレクター。

オンエアが終わって、番組の裏側ってのはさらすもんだろう。

 

何回も言うけれど、僕が最後のテレビ出演としてみたいのは

トーク番組でもなく、ゲストと歌うのでもなくてね。

NHK101stライブのような、じっくりと拓郎と向かい会える番組なんだよな。

 

私たちの望むものは 拓郎のための私たちではなく

私たちの望むものは 私たちのための拓郎なのだ

まぁ、最後だからこれくらいのわがままは、言わせてもらってもいいよね。

 

 

2022年4月 8日 (金)

あほなスタッフに怒りを覚える。

今日は3回目のワクチン接種。午後から半休を取りました。

予約は夕方だったので、先日電話でちょっときてくれない?って誘われてた

銀行さんに足を運びました。

30年以上月¥5,000づつの積立定期をしてたのですが、記帳もしないでほったらかし。

さすがに、通帳の繰り越しをしてもらわないと困りますと、連絡があったのです。

そこで、この際そいつを解約しにでかけました。

銀行には二時過ぎに到着。20分ほど待って、いざ窓口に。

電話をくれた方が、ちょうど窓口でした。そこで説明を聞くと・・・

繰り越しにしろ、解約にしろ、通帳に記載しないと進められないんですとのこと。

一時間ぐらいかかりますって言われました。そりゃオーバーだろう。

はいはい、待ちますよ。その間、支店長さんから新しい金融商品の説明なんぞを受けてまして

ははーん、この説明を受けさせるために、一時間なんて言ったんだなぁと推測。

支店長さんも、あんまりやる気のない説明で、よく家で勉強してまた来ますよと逃げを打ちました。

そこから、延々と待つことに。パーテーションの向こう側から、延々と続くプリンターの印刷音。

たぶん僕の通帳に記入してるんだなとおもうと、プリンターにエールを送りたくなります。

終わらない・・・・終わらない‥‥人間なんてより終わらない。

3時になり、シャッターが閉まり始めました。おいおい、僕はどうしたらいいんだよ。

行員の方が、シャッターが閉まってもそのままお待ちいただけますってんだけど、落ち着かないよ。

入り口のシャッターがすべて降りて、たった一人残された客。

行員たちは、一日の締めの作業に入り始める。落ち着かない。

こういうシチュエーションに立たされたってのは、めったにない経験ではあるけれど

いやなもんだ。

けっきょくそれから30分ほどでようやく、通帳記入が終わり無事30数年のお小遣いが

普通預金に戻されました。月¥5,000×12×30。まぁそこそこいい金額だ。

それはいい。この積立ってなんで始めたんだっけ?と考えていたら、思い出した。

あれは、この積立を始めるちょっと前。やはり総合口座通帳の繰り越しで銀行にいたのです。

そして、僕の通帳にデータを記入しているその時に、落雷があってタイミング悪く

僕のデータがすっ飛んだ時があったのです。えらく待たされた後、ちょっと上の役職らしい人が来て

データが消えちゃったことを説明されました。え?それってどうゆうこと??

つまり、僕の銀行におけるデータがなくなっちゃったってこと。しかし、安心してくれ。

ちゃんとマイクロフィルムにバックアップしてあるから、そこから通帳は復活できる。

そんな説明を受けたと思います。さぞやいっぱい、おまけをくれるのかと思いきや

ティッシュひと箱だったのが、妙に記憶にあったりして。

後日、復刻された通帳を受け取りに行った際に、窓口の女の子にお願いされて、始めたんだった。

因果は巡る。そんなこんなで、接種を受けて、買い物をして、さぁ、熱が出て寝込んでも

大丈夫な支度は完了。

 

そこでだ、ラジオが始まる前にアップしときたいことがある。

君たちは、あのスタッフブログを見て読んで、喜んでるけれど僕は怒ってる。

拓郎さんが捨てたものを、勝手に拾って公開してる、そのあほさ加減に

腹が立たないのか?

ごみ箱に捨てたってことは、人に見せたくない、見せなくてもいい、見せるべき筋のものではない。

そういう物じゃないの?

勝手にやってるけれど、それは倫理上許容範囲なのか?

オンステージ2に怒りをぶつけた。勝手にしゃべった泉谷のスタッフを怒鳴りつけた。

そんな拓郎さんが好きだったし、筋が通ってた。その拓郎さんはどう思うだろうか?

はははと笑う吉田拓郎になっていたら、僕はもうそれは吉田拓郎ではないと思う。

そして、そんなスタッフを擁して作られたアルバムなんぞ、何の価値もない。

勝手にやってくれ。

歌は、曲は最後の姿が、人前で歌われた、聞かれた時がすべてでさ。

その途中での思いとか、半完成した姿なんかは、見せちゃいけないんだよ。

だからこそ、ごみ箱に捨てられたんじゃないのか?

僕は、この今回のスタッフブログが不快だ。裏切りだ。つまらない行為だ。

激しく非難する。そんな怒らなくてもと思われても、思わない方が不思議に思う。

もしこれに触れない吉田拓郎だったら、僕は嫌だな。

 

とにかく、吉田拓郎の不幸は、素晴らしいスタッフに恵まれてこなかったってことだよ。

2022.4.8 20:30

2022年3月13日 (日)

ユーキャン

読売新聞を購読しております。昔は朝日でした。

拓郎さんのチケット発売の広告が、なぜか朝日ではなくて読売に

掲載されるので読売に変えました。

その読売の今日の全面広告。さだまさしの「MC部分」のみのCDセット発売。

あのユーキャンが企画したらしい。まぁ面白いと言えば面白いし、?が付くと言えば?。

曲は何度聞いても飽きはしないが、「しゃべり」はどうなんだろうという気分になる。

同じ喋りでも「落語」なんてのは、これまた飽きない。名人と言われる噺家さんのは

何度聞いても飽きない。漫才でもナイツの漫才は、これまた何度同じのを聞いても笑う。

しかし、さだまさしはどうなんだろう?いや、さだまさしと言うより、コンサートの

MC部分ばかり聞いてどうなんだろうと思う。

曲と曲とのつなぎの「話」を、ただ単に面白かったからと聞くのは、どうもね。

ツアーで何か所か回って、同じ話をされて、オチがわかってるから笑わなくなる。

それがコンサートのMCだわな。基本的に歌の添え物。

もし仮に「吉田拓郎ツアーMC大全集」なんてCDが出たら、買うけど聞かないような気がする。

 

で、またラジオ聞いてないんだな。もうラジコも聞かないと思う。

最後だからって、しゃべりすぎのような気がする。

あの時はこうだった、あの人はこうで、本当は、ああだったんだ・・・・

って、それ要らないとは思わないかい?

少なくとも、僕はあのレコードやCD、ラジオ、時々テレビから飛び出してくる

吉田拓郎に、まっ、影響を受けたって言うのも気恥しいけれど、少なくとも

支えにはなってきた。僕なりの受け止め方でね。その裏側をいまさら暴露されてもね。

そりゃ、裏切りだよ。

あんまり昔の仲間を、否定するのはちょっと聞きたくはない。

言わなきゃいいのになぁと、思うよ。あぁあくまで風の噂で知ったことなんだけどね。

永遠の嘘をついてくれってのは、やっぱり真実だ。

 

 

2022年2月21日 (月)

洗濯機

この土日は、電器の量販店巡りに忙殺された。

14年使ってるドラム式の洗濯機が、終焉を迎えるかもしれない。

特に洗濯できないないわけではない。エラー表示もない。でも、確実に

終焉へと向かってるのがわかる。脱水したTシャツの水分の残りが、以前より

確実に多くなってる。干したときにわかる。

頑張ったけど、もうこれ以上回せませんと、洗濯機が言い放つ日がやがて来る気がした。

いろいろ回って、いろいろイライラしたり悩んだりしたが、結局最後に行ったお店で

納得価格で買えたので、まぁ良かったよ。

今度の土曜日に我が家にやってくる。

今度のは、乾燥に力が入ったメーカー自信作らしい。スタイルもおしゃれ。

これで、もう洗濯を干して取り込むから、一気に乾燥までと企んでいる。

洗濯機置き場でしばし、新しい洗濯機を置いた画を想像してみた。

しかし、そこにはまだ14年も頑張ってくれたドラム君がたたずんでいる。

そうだ、彼には本当に頑張ってもらった。まだ母親が家で介護を受けていたころに

一日に何度も汚した衣類を、夜頑張って何度も回ってくれて、朝までに乾かしてくれたドラム君。

くるくる回っているのを、正面の窓から眺めていると、なぜか無我の境地になる。

くるくる回って、汚れを落としてくれている。そいつを眺めていると、僕の心もくるくる回して

いろんな汚れちまった今日や昨日やおとといをきれいにしてくれたらなと思ったり。

 

若い連中の音楽は魅力的だ。老いた我々にも魅力的だ。そして刺激的だ。

老いた心に必要なのは、突き刺さる刺激と輝いてる魅力だ。何より”新しい”ってのは

その両方を持っている。古い船が老いた心ならば、そいつを動かせるのは”新しい”水夫だ。

最後のアルバムの噂は見聞きするけれど、いまだ僕は、覗こうとは思わない。

今までで、最高なはずはないからね。古い船をそう古くもないけれど新しくもない水夫が

動かしている。僕がずっと前に思ってた「若い奴らに吉田拓郎をいじらせてみたら面白い」とは

ちょっと違う方向で、最後を迎えそうだ。

吉田拓郎をリスペクトしない連中が、吉田拓郎をいじくる。僕らのイメージを粉々にして

吉田拓郎を作り上げていく。まぁ、10年前だったら面白かっただろうけどね。

最後のアルバムとやらを聞いた後で、新しいドラム式の洗濯機で僕の心を、くるくる回してみようかな。

ああ、でも最新の技術満載の洗濯機でも、しみ込んだ吉田拓郎は、落ちそうにもないな。

 

さて明日から第二章。

2022年2月 1日 (火)

二月一日

二月一日は、死んだおやじとおふくろの結婚記念日だったことを

ふと思い出し、帰りにケーキなど買ってきて仏壇に供えた。

おやじとおふくろの結婚式には、ウエディングケーキなど無かったろう。

あの世とやらで、二人でケーキカットでもしてくれ。

おやじは博打好き。遊び好き。兄貴や姉貴が生まれた当時は、おふくろも

苦労が絶えなかったらしい。それからいろいろ、いろいろ、いろいろ。

以前両親についてはちょっと書いたかもしれないので、いろいろは書かないけど。

僕が小さい頃の遠い記憶の中で覚えているのは、おやじが、なにか気に入らなったのか

おふくろを、ぶん投げてる光景。投げてる先は、畳んであった布団。

その辺は、おやじもわきまえていたのかもしれない。

そんなおやじが、倒れる一か月くらい前に、夜寝静まってから

おふくろに、土下座にするかのごとく、あらたまって苦労を掛けたことを

詫びたという。やめてくれと言っても、何度も頭を下げて詫びたという。

そして、一か月後おやじは旅立った。

その時は、気持ち悪いとか、不思議な気持ちになったおふくろだが

おやじが死んでから、虫の知らせと言うか、合点がいったという。

 

先日のラジオでは、拓郎さんも父親に対して憤りを口にしたらしいね。

女性セブンにも、記事が載ってたらしい。

拓郎さんに、あえて言いたいんだけどさ。

父親と母親は夫婦だからね。子供にわからぬこともあるさ。

子供が知らないところで、本音を語ってたんじゃないか。

今、僕がこうしてとりあえずは、雨にも打たれず、風にも吹かれないで

ゆっくり眠れるのは、そんな両親がいたからに他ならない。

父親もきっと、母親に負けないくらい子供の事を思ってたはずだよ。

憤り何てもう、捨ててしまっていいんじゃないか。

 

と、ひとり言です。

 

2020年10月12日 (月)

どうしてこんなに悲しいんだろう

昼間は夏の名残の暑さだが、日が沈むと心地よい季節だ。

会社からの帰り道、車の窓を開けて風を受けながら走る。

刈り取りの終わった田んぼに積まれた稲わらの乾燥した匂いが

風に乗って入ってくる。子供の頃、株だけになった田んぼを駆けずり回り遊び惚けていた

あの頃の匂いだ。夏が終わった。

 

僕らの夏も、とりあえず終わった。いや、とっくに終わっていたけれど

その現実を肯定するのを先延ばしにしただけだったのだ。

とにかく、今までずっと走り続けてきた思いが、歩みを止める。

だけど、そこにとどまるわけではないだろう。もう走らないけれど

ゆっくり歩んでいく。後ろを振り返るために、歩みを止めただけ。

見出しに吉田拓郎が付いていようがいまいが、拘らない。

結局、脱吉田拓郎は果たせなかったものね。

 

拓郎さんの失敗は、ファンと結びつこうとしたこと。「個」であった吉田拓郎が

結びつく存在になった。結びつけば、しがらみが生まれる。

ファンの意見を聞こうとしたこと。吉田拓郎の最大の魅力は裏切りの美しさに尽きる。

それが、ファンクラブでしがらみに変わった。

常に吉田拓郎は「個」であってほしかった。ファンとは「個」と「個」のぶつかり合いで

居て欲しかった。でもまた「個」に戻る。しがらみのない場所で好きな事をやる。

吉田拓郎の秋がまた楽しみだ。

エンディングをあれだけ画策したのだから、このまま埋もれるはずはない。

枯葉が隠そうとしたら、僕らはそれを払いのけてやろう。

 

どうしてこんなに悲しんだろうを聞いた。

みんなの中で生きるのさと、歌う吉田拓郎がそこに居た。

待ってますよ。

そして、姿勢を正し申し上げます。 お疲れさまでした ありがとう。

 

2020年10月11日 (日)

平衡感覚

今までにも、何回となくドタキャンしてきたのになぁ、何を今更感あり。

まぁ、それを言っちゃおしまいよ。英断と言う事でね、いいんじゃないですか。

正直なところね、昨年のライブのあと僕はもう無理だよ無理だよと何回となくつぶやいてきました。

実際、あれだけ病気をしていると去年のライブだって無理は無理だったと思いますよ。

去年のライブは、吉田拓郎がよかったのではなく観客が良かった。ファン助けられたツアーだったと思います。

あのあと、此処でも何回となくもう無理はするなと書きました。

最後だからと必死でプレイする拓郎。それを見守るファン。ちょっと想像しただけで悲しいな。

やっぱり中止は、正解だったのかもしれん。最後の花道を飾ってあげたいと思う気持ちは

今でもあるけれど、ファンとしても肩の荷が下りた感じで、ほっとしたところもある。

当分、見出し人間は継続です。だって君もなにも無くなったら退屈だろ?

 

さて、拓郎さんに言いたいことは山ほどあるのだけれど、その最もたることが一つ。

大きな勘違いをしているという事実。弾き語りをやれよとか70年代云々とか

そういうことをリクエストするファンは、決してフォークソングに毒されてはいない。

むしろ、フォークソングとか嫌いで拓郎さんのファンを続けて来た御仁ばかりじゃないでしょうか。

吉田拓郎がフォークだなんて最初から思ってるファンはいない。断言していい。

弾き語り即ちフォークって言う間違った考え方をしているのは、拓郎さん本人じゃないだろうか?

フォークのファンじゃない。吉田拓郎のファンなんだ。吉田拓郎のスタイルとして、大編成だったり

弾き語りだったり、それこそロックバンドだったりと、その時代時代で変化はしても、基本的に

吉田拓郎と言うジャンルのファンなんだよね。岡本さんの詞がいいなって言うのと、

松本さんの方が好き!っていう程度の違いだと思うのですよ。

しょうがないじゃない、こんなに長くやって来てんだから。そりゃねぇ、それぞれの時代のファンがいて

当たり前だと思うのです。どういうスタイルを取ろうと、拓郎は拓郎だと、そうみんな思ってるはず。

そこを勘違いしてると思うのですよ。諸先輩は拓郎さんが言うところのフォークを受け入れられなくて

吉田拓郎のファンになったはずなんだ。演奏スタイルにこだわるのはやっぱりおかしいよ。

長いことやってればさ、それぞれのスタイルのファンがいていいじゃない。それを否定するのは

精神的なアマチュアなんじゃないか?頑固とか信念とかじゃなくて、それが老いなんだよ。

若さは常に精神が柔軟だ。そこへ行くと、僕はまだまだ柔らかいつもり。

とりあえず、昨日は持ち上げたので、今日は下ろしてみました。

じゃないと、平衡が保てないでしょ。ではまたね。

 

2020年10月 9日 (金)

ハンコ顔

ラジオの話かなんか、アップされてたと思ったでしょう?

違うんだな、これが。そういうのは、他人任せ。今日はハンコの話。

河野大臣の脱ハンコが話題であります。ある意味脱ハンコ賛成、ある意味脱ハンコどうなの?

初めて自分の印鑑を手にしたのは、中学3年生の終わり。卒業間近だったと思う。

毎年記念品と言う位置づけなのか、自分のハンコを卒業生は渡されていたのだ。

進学する奴が大半なのだが、それでも何人かは就職する人間もいた。

社会に出ればハンコも必要になるってことが、始まりだったのかもしれない。

白く丸いハンコの側面には「**中学卒業記念」と書いてあったような記憶がある。

ハンコを持つってのは、大人になるアイテムの一つってことだね。

結局この時いただいたハンコは、後々いろいろ役立つ。高校の時のいろんな書類に押されたと思うし

卒業してバイトを始める時、初めて銀行口座を作った時の銀行印にもなった。

いつの間にか縁が欠けて使わなくなり、今は行方不明だ。

社会に出ると、いろいろな場面で印鑑を押すことになった。ハンコも種類が増え

実印・銀行印・認印などのセットを作ってもらった。初めて車を買う時の契約書。

ドキドキしながら、実印を押したっけ。あの時は、ローンと言うものはなくて

丸専手形と言って、車を購入するとき専門の手形を作った。その手形一枚一枚に

ハンコを押した記憶がある。まぁ、借金の返済をその都度手形を振り出すって形だ。

大人の世界に、一歩踏み出したという実感がこみあげてくるハンコの重み。

そうい自覚を促す意味では印鑑は必要だと思う。

僕はハンコ押すの好きですよ。あぁ、ハンコウスルノモ好きだけどね。

 

いらないと思うハンコもいっぱいあるのも事実だよね。ハンコなんて、偽造もできるし

信用と言う意味じゃやっぱりサインなんだろうと思う。いつかも記事にしたけれど

車のセールスマンが、代筆がバレちゃったと言う件。もうそこまでわかってるのなら

ハンコはいらないと思う。いろいろな書類の確認欄に押されてるハンコも、意味ないなと思うし。

誰かが勝手に押されてもわからない。

自筆捺印となっていると、どっちかでいいんじゃないの?と思ったりもする。

 

じゃぁ、僕はどっちなんだとと問われたら、有ってもいいんじゃないかと思う。

ハンコの代わりに全部サインでって言うのは、違うと思うな。

根付いてる慣習と言うか文化がね日本的でいいと思うよ。なんでもかんでも外国の

やってることに右に倣えって言うも乱暴な気がする。グローバルな点はそりゃ世界の標準に

従った方がいいけれど、婚姻届けとか離婚届けとか捺印廃止って言うのはちがうよな。

ハンコを押す瞬間、ハンコに入れた力が決意なんだよな。書類には思いが残るのだ。

部下の持ってきた書類に目を通して、この稟議書OKです、ってハンコを押す。

責任の証だよな。人に押させるのではなくて自分で押した場合ね。部下も目の前で

押されたハンコを見てる。なんかこう、サインよりも重々しい。

無くしてもいいところは無くせばいいし、必要だと思えば残せない。是々非々でいいじゃない。

河野大臣もそういってた気がするんだけどね。いつの間にか全部廃止だなんて言われちゃって。

ハンコの話は面白いな。ちょっと続けよう。

 

なんでハンコの話しかと言うと、拓郎さんて「ハンコ顔」って言われてたよね、確か。

まっ、そう言う事です。

 

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