年越しそば
さすがに、エンドレスに近い状態で、見てると飽きるわ「WANGAN LIVE」
毎日、特上のウナギを食ってるようなもんだ。時々はコンビニのスパムむすびでも
食べたくなる。そんな気分の大みそか。
年越しそばは、ここ数年「かけ」のつゆを、つゆの素みたいなのを薄めて
ごまかしてきたけれど、今年は母が元気だったころのそばを、再現してみた。
と言うのも、アルバムを整理してて見つけた写真。
60年前の自分である。右手が触れているのは炭俵だ。いい笑顔だ、と本人は思っている。
この緑色のセーターは、母の手編みだ。たぶん兄か姉の着ていたセーターをほどいて
編み直したんだろう。誰に習ったんでもなく、見よう見まねで覚えたに違いない。
ふと、記憶をたどる。遠い遠い昔に問いかける。頭の中のどこかにまだいる幼いかったころを
呼び戻す。そうだ、父のセーターも手編みだった。とっくりのセーターにカーキ色の作業ズボン。
それが、冬の父の印象だ。
外に働きに出ていた母は大みそか、正月自宅に追われていた。父は庭に大釜を据えて羊かんを作る。
しゃもじのでかいのを操り、釜の中をかき回し続ける。お使いで買ってきた白い四角い棒のような
寒天が釜の中で羊かんに変わっていく。僕はそれを、ただ見ていた。釜から立ち上る湯気の向こうに
とっくりセーターの父が、しゃもじを動かしていた。頃合いを見計らって、型に流された羊かんは
大みそかの寒気に触れて、甘い香りを漂わせ固まっていく。父は一仕事終えたとばかりに
タバコに火をつけ、腰を下ろしていた。僕は父の隣に立ち、固まり始めた羊かんを見つめる。
型に流された羊かん。そのまだ柔らかいあずき色の中に、指を入れてみたい衝動にかられた。
そんなとき父は、勘が働くのか、これまた頃合いなのか、その型にふたをする。
僕の指は、行方をなくす。すると、父は小さなしゃもじを持ってきて、釜の中をこするように
すくい、しゃもじにくっついた羊かんの「素」をくれた。僕はしゃもじにかぶりつく。
甘い。アズキと砂糖の甘さが口の中で幸せをくれた。
しゃもじを母のところに返しに行く。正月に特別すんごい料理を食べた記憶はない。
だけど、母は忙しく動いていた。普段できない掃除とかいろんなことを、一日で
終わらせようとしていたのか、よくわからないけど相手にしてくれなかった記憶が
漠然とある。
そんな忙しい毎日の中で、手編みのセーターなどよくできたもんだ。きっと目が詰まって
あったかかったんだろうな。
大みそかの夕方、家族が6畳間にこたつを囲んで座る。父と僕がこたつの一面を占める。
兄は一人で一面を占める。姉二人が一面を占める。残った一面の半分に母が体を半身にして
座る。そこはテレビに近い面だからだ。真ん中に座るとテレビが見えない。またそこが一番台所に近い。
そしてそばを食べる。レコード大賞のテレビ中継を見ながら、みんなでそばをすする。
エビ天やかき揚げなど載ってない。細切りの人参と油揚げとひき肉とシイタケ。これがつゆに混じっている。
かけそばは、瞬く間に胃に納まる。レコード大賞の新人賞の発表もされないうちだ。
昼間作っていた羊かんもおせちも、まだお預けだ。そばだけでは・・餅だけはフライングで
磯部巻きにして食べたっけ。
貧乏ながらも楽しい我が家。父も母もきっと子供たちの成長が楽しみだったんだろうよ。
今よりずっと貧乏だけど、満たされていたんだろうと思うよ。写真は思い出させてくれる。
あのそばの味を、もう一度味わいたくて、記憶をたどり作ってみた。
惨敗。これじゃないという結果に終わる。
テレビはつまらない。動画もつまらない。結局「WANGAN LIVE」を見ながら
大みそかも暮れていくのだ。
どちら様も、良いお年をお迎えください。
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