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2019年6月23日 (日)

名古屋における吉田拓郎考

吉田拓郎は、常に吉田拓郎的であり吉田拓郎であるべきである。

僕はずっとずっとそう思ってきたし、これからも変わらないだろう。

吉田拓郎は、癒しではない。吉田拓郎では癒されない。

常に「鼓舞」であり、「推進力」であり、「北極星」なのだ。

時に奮い立たせ、時に後押しされ、時に道しるべとなってきた。

僕の見出しは常に吉田拓郎であった。

 

魅かれることに理由などないのだ。

ただ波長が同調したかの如く、無くてはならない存在になっただけのこと。

そいつに後付けの理由などないのだ。

吉田拓郎のどこがそんなにいいのか?と聞かれることが、一番腹が立つ。

逆に、どうして拓郎に惹かれない?と問い返したい。

君の見出しはいったい何だい?と、聞いてみたい。

 

昔、そう’94日本を救えの武道館で、拓郎は「ふぁいと!」を歌った。

まさに、被災地に向けての「ふぁいと!」。後のツアーでも披露したが

武道館での「ふぁいと!」には、到底及ぶはずない。

その年のクリスマスだったか、泉谷しげるがLFの番組で、この時の「ふぁいと!」を流した。

僕は、ちょっとノイズ混じりだったけど、テープに録音しておいた。聞かせてやりたい人がいたのだ。

年末にその人あてに郵送した。その人は病院のベッドの上で、繰り返し繰り返しカセットテープから流れる拓郎が歌う

「ふぁいと!」を聞いていたという。退院してからの様々な不安と闘う中で、元気付けられたと、あとで聞いた。

ノイズ混じりながらでも、拓郎の声は、ただそれだけで、勇気を与えてくれる力を持っている。

 

また、これはごく最近聞いた方の話だが、こちらは命に係わる病との戦いの最中、「人生を語らず」が

応援歌だったと言う。コップの水を一息に飲み干す。たったこれだけのフレーズが、その方に勇気を与えたという。

コップの水を飲み干せば、傷も癒えるし・・が、明日への希望だったわけだ。

拓郎の拓郎らしさの真骨頂だ。

 

頑張れ 頑張れと、拓郎は言わない。さだ某のように言わない。

頑張れ みんな頑張れと拓郎は言わない。井上某のように言わない。

言わずとも、拓郎は身をもって示す。既成社会への挑戦、病との戦い。

こんな奴になんか、負けるもんかと身をもって教えてくれた。

そして、本来ならもう歌わずともよかったのだ。

3年前、5年前、7年前、そして10年前のライブを聞き返してみた。

そして、名古屋で聞いた拓郎。

変わらないというやつがいる。まだまだ出来るというやつがいる。

わかる。痛いほどその気持ちがわかる。

だけど、それはこちら側のわがままだ。

それは、あくまで願望の域だ。

名古屋はよかった。名古屋しか見てないけど、それでも一番だなと思わせてくれた。

それは直後よりも翌日になって、そして、それよりまた翌日になっても余韻が残る。

名古屋だけに老舗のひつまぶしを食べて、日常に戻ってから普段のコンビニ弁当を

眺めつつ、味を思い出すがごとくだ。

しかし・・・

しかし、それはあくまで会場の中の聞き手と演奏者の一体感がなせるところが大だった。

拓郎自体は、円熟の域をとうに過ぎてるように思えて仕方なかった。

吉田拓郎が吉田拓郎であろうとしてるぎりぎりの今、望まないのが感謝だと思う。

まだまだ現役だよなんて、拓郎さんにあまりに失礼だ。

自分のことは自分が一番知ってるはず。

でも、だからと言ってファンを辞めるわけでもない。ファンであり続けよう。

僕の見出しは、吉田拓郎。永遠に見出し人間なのである。

 

と、ご本人が聞いたらきっと、「わかったようなこと言いやがって!」と

お冠になるに違いない。「お前たちに俺の何がわかる」と、怒鳴られるに違いない。

そして、誰がやめてやるもんかと、言うのを期待しつつ・・

 

 

 

 

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